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NO136 セピア色からカラフルな人生へ!。
2005/08/18
原宿表参道の蝉の声を聞きながら歩いていると、キディランドの店頭で新作おもちゃのデモンストレーションに戯れる親子連れを大勢見かけました。お盆休みは終われど、ここらはまだまだ夏休み真っ最中です!
子供達は、この夏休みに心に残る楽し〜い“思い出”いっぱい、作れましたでしょうかねぇ?。
“思い出”というモノは、決して楽しいコトばかりじゃありませんよねぇ。
なかには思い出したくない記憶や隠しておきたい“思い出”触れられたくない“思い出”もあるかもしれません。
しゃべり言葉は、メールやお手紙と違って録音テープや文面に残さない限り、その場で消えて行きます。泡のように記憶から消えてゆくからこそ、会話もリラックスできて気楽だねぇ〜というお方の主張を聞いたコトがあります。
誰にも伝えるコトなく、自分の記憶から“思い出”を抹消してしまうのも、自由なので、それこそ、それぞれのオンリーワンの生き方かもしれません。
セピア色に変色した古〜い写真。かなり年代モノの写真も画像処理システムにかかれば、今や現在の鮮度を取り戻し光り輝く記憶を今に再現できる時代となりましたぁ。
過去の記憶を記録していた写真も、現代に蘇らせるコトができるようになっちゃったんですねぇ。
古いアルバムをめくると、セピア色からさらに赤味が強く進行し消えかけている写真も何枚もあります!
古い歴史ある“思い出”をこのままの状態で消滅させてしまってよいものか?でも、この古びたセピア色と臭いが、かえってその当時の記憶を懐かしく鮮明にさせているのかも知れませんねぇ。
そういえば、私の夢に出てくる“思い出”はセピア色、モノ黒、オールカラーと色々です。
地球人の皆様、一番記憶に残る“思い出”の色は何色ですかぁ?

ところで“地球人のヒトリゴト”なんとか5ヶ月目に入りました。ヒトリゴトを聞いてくださり誠にありがとうございます。
これからもなにとぞよろしくお願い申しあげます。



NO135 ケセラセラ〜 お盆の“墓守り”
2005/08/17
恒例のUターンラッシュピークも宮城のM7.2の地震発生で大混乱しましたぁ〜。これだけ頻繁に大地震が続くとちょっとした電車の揺れにも「大変だぁ!地震だぁ!」それほど神経が過敏になってしまいますねぇ。
さぁて、お盆休み中はファミリーレストランに行くと普段の親子連れより圧倒的に親子3代、おじいさん、おばあさん、子供達、孫達の大集団でにぎわっておりました。とても微笑ましい光景に久しぶりにほっとする気持ちになれました。お墓参りにいった時も、同じく大勢の家族連れが列をなしておりました。これだけ多くの家族・親族の集団を目撃するのもこのお盆。“ふるさと”に帰省するため、ご先祖さまのお墓参りするために日本人が大移動して血族があちらこちらで集まるのですからあらためて“絆”を大切にする日本人のDNAを再確認できる瞬間でもあります。
だからこそ、今も大きな問題となっているコトがありますねぇ〜。それは“墓守り”ですぅ。これからの少子、高齢化で必ずといって浮上してくるのは、無縁仏・・・・。
もう、すでに盆に帰省できない方もいれば継承者もいない方もいますねぇ。こうして日本人の代々続いてきた“墓守り”のシステムも目にみえて崩れはじめてくると必ずそれを解決するシステムが生まれてくるんですねぇ。
団塊の世代などは、もう自分のコトとして身近な問題!
今でこそ、“墓守”代行サービスはどんどんふえているけれど、これから益々多くの中からセレクトできる程のユニークなサービスが少子・高齢化の新しいシステムとして定着していくのでしょうねぇ。
心配しなくとも、大丈夫!日本人の大勢の智恵がモノをいいますよ。
♪ ケセラセラ なるようになるわ 先のことなど わからない ♪





 


NO134 豊月(ほうげつ)85歳が語る。私の戦争体験回想紀B。
2005/08/16
(私の戦争体験回想紀A)より続く最終編。

いよいよ雪も解け、暖かくなりました。相変わらず、リヤカー車に肥料を乗せて、耕しに行きました。幾分土も柔らかくなり、種をまきました。キャベツ・じゃが芋・人参、果たして芽がでるか疑問です。毎日の努力よりありません。
五月・六月・七月も過ぎ、八月。どうやら、泥炭地にも喜びの野菜が出来ました。目前に見渡した苦心の野菜。感謝感激。役場、農家の方も驚き、噂を聞きつけた方からも誉めて頂き、本当にその時は嬉しかったです。
いかに努力によってやり抜くという人生を沢山学びました。
八十三歳。今も当時の気持ちは忘れません。

ついにあの広島・長崎に戦争には絶対使ってはならない化学兵器。ついに初めて日本国土に使用したのです。最後の原爆によって、暑い昭和二十年八月十五日、終戦となりました。
その時の状況は、役場よりラジオにてポプラの木の下、丘の上に大勢集まり、今上(きんじょう)天皇、みずから終戦放送。村人は目を見張り、息を静め、耳を確かめ、沈黙の静けさ。瞬間、われに戻り、互いに手を固く握り、最後の戦争の終わった喜び、負けたくやしさ、悲しさ、憤り、終戦後の不安、なんともわからない涙を流しての感動の気持ちは、言葉では到底説明できません。今も原爆によって苦しんでいる人が大勢います。
本当に長すぎる大東亜戦争でした。
私達の時代は、満州事変、太平洋戦争、大東亜戦争、若い時の人生の半分は、戦争時代です。

終戦により、東京に引き揚げる事になりました。私達の家族は、大変お世話になった村の人情に厚く感謝しつつ、秩父別村(ちっぷべつむら)駅まで送ってもらい、親戚の人より大きな握り飯をいただき、村を後にしました。満員の汽車に乗り、泊まる所もない不安な出発でした。
ようやく函館に着きました。おにぎりは腐って食べられませんでした。
アメリカ軍進駐軍の指図によって白い消毒DDTをおかまいなしにふりかけるのです。幼児、子供、老人、そしてまた、満員の連絡船に乗るのです。船内は人のひしめく熱さ、とても人間扱いではありません。荷物の様です。これも敗戦の惨めさです。このような道中で東京入り。思った以上の焼野原です。建物が崩れ落ち、小さな子供は両親を失い、あてもなく焼け跡にさまよう姿。とても哀れです。
人々は栄養失調にて肌の色が黄色です。進駐軍だけ颯爽(さっそう)として、今更日本人のみじめさが目にしみました。
身を持って体験者でなくてはとても知る事は難しいです。
焼け跡には引き揚げた兵隊、疎開の人がだんだんと帰り、焼け跡にも復興の兆しがよみがえってきました。時の流れと共に町も変わっていき、小さな店も出来、焼けたトタンの小屋も次第になくなりました。
私達も日本橋中心地に、小さな家を建て、初めは、しる粉屋、本業の菓子屋をはじめました。その時の苦労は、一所懸命、夢中で寝る間も惜しんで働きました。その時は若かったからです。

復興は、二十年かかったと思います。が、充分とはいえませんでした。
現在、平成時代に入った東京は、高層ビルが立ち並び、世界一の発展王国です。歴史はいつも創られています。今でも戦争はなくなりません。世界平和はいつくるのでしょうか。こんな状態が続く限りは、経済的安定が定まりません。
いつの世の中でも、時代と共に元気で生活出来る事がどんなに幸せか。一日一日感謝の毎日です。記したい事は山ほどありますが、なかなか難しくて表現できません。体験者も高齢者となり、年々少なくなると思います。
これからは老後を大切に行きたいと思います。

私は、お蔭様で家族に守られ、幸せな毎日を過ごしています。「お父さんは八十六歳で他界」
いつも天国より私達一同も見守って下さいます。私は朝夕、仏壇に向かって、今日も家族の無事で過ごせた事柄を報告、挨拶します。
明日も健康、元気で暮らせます様、お父さんにお願い、お祈りします。

五十八年を経た終戦記念日は今年も、八月十五日迎える日も間近です。
家族一同、戦争犠牲者の尊い御霊に対し、絶対忘れる事のない様、静かに黙祷を捧げ、同時に前途将来に、希望を持って進む孫達の姿を私は胸に秘め、身内、私の家族の皆さんと一緒に、明るく頑張っていきたいと、いつも思っているのです。
どうぞよろしく

以上を持って終わりにさせていただきます。


NO133 豊月(ほうげつ)85歳が語る。私の戦争体験回想紀A。
2005/08/15
(私の戦争体験回想紀@)より続く

早速、親戚のリヤカー車を借りて、近所の米屋さんに行き米ぬか・牛の堆肥、たくさん頂き、車に積みました。米屋さんのおじさんは心配そうに注意して下さいました。
秋も近い暑い日です。さぁ出発。村はずれの泥炭地に向かいます。途中、曲がりくねった細い道。時々は田んぼの中に、リヤカーごと落下。なかなか重いので、田んぼより上がらず、農家の人に助けられ、励まされながら来ました。
困っている時、よく農家の方に助けて頂きました。原野の泥炭地は土というより、乾燥、まるで弾丸のような塊です。力のある限り、掘らなければなりません。このような状態が、朝早くから夕暮れまで毎日続きました。
秋もだんだん深まり、肌寒い帰り道。空襲もない静かな村。延々と連なるえぞ杉林。留萌(るもい)連山。黒々と夕日に映え、遠くより牧場の羊の鳴く声。一層淋しさが増し、涙する事もあります。いつこの戦争が終わるのかしら。不安が胸一杯になります。

まだ六月の春は肌寒く、深い雪も幾分解け、畔(あぜ)の水も音を立てて流れ始めました。私達疎開者も少し、村に慣れて落ち着きました。それでも農家には未だに、赤い紙の招集令状が来ます。
二メートル長さの布に『出征兵士入隊万歳 何々君』と大きく書かれたのぼり。婦人はモンペに白いかっぽう着。
たすきには、国防婦人会と記され、家族はじめ見送る人は皆、日の丸の小旗を強く振ります。
出征兵士は、戦闘帽子、国民服。ズボンのすそには、茶色のゲートルを固く巻き、赤たすきに奉公袋を持ちます。
青年団を先頭に楽隊と共に、
「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは手柄たてずにいられよか」と歓喜の声に見送られ、ポプラ並木道に長い行列。次第に楽隊の音も遠くなり、急に見送った後のつらい虚しさが胸をしめます。しみじみと見送る両親、また、小さい子供を残した遺族のつらさ、寂しさが分かります。
私は祈ります。早く元気にて、またこのふるさと秩父別村(ちっぷべつむら)に帰る様。言葉には出ませんが、皆同じ気持ちだと思いました。

私の尊敬する兄も、東京より出征しました。
当時、立派な早稲田大学卒業。丸の内の日本郵船入社。前途、希望に燃え、それもつかの間、戦争は日増しに激しくなり、やがて敗戦。兄は残念、遺骨となって帰ってきました。今でも、恐ろしい戦争がなかったら、年老いた両親も淋しい苦労の人生はなかったと思います。私も老年になり、ことさら思います。
戦争はいかに、全国民にむごい、つらい悲しみ、苦しみを与え、いくら時間が経ち、時代が変わってもその傷あとは消えません。記し書く度にその当時が思い浮かび、つらく淋しくなります。
いかに人の尊い命が、無駄な戦争によって、沢山の人が命をなくしました。現代の若者にも、しっかり知って頂き、一つしかない大切な命を大事に、明るい人生を送って欲しいとお願いします。

(続く)


NO132 豊月(ほうげつ)85歳が語る。私の戦争体験回想紀@。
2005/08/14
豊月(ほうげつ)85歳が語ります。
「私の戦争体験回想紀 58回終戦記念日を迎えて」は“戦争中の生きた体験”を戦争を知らぬ世代の子供達、孫達に伝えようと平成15年8月に豊月が執筆したものです。
3回にわたり掲載いたします。

私は、小石川小日向台(こひなただい)町に住んでいました。
その当時は、25歳だと思います。今は83歳。
当時


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